私が暮らしているのは、大分県臼杵市という長閑な城下町。ひょんなきっかけから、北九州市は門司港のポルトさんと一緒に仕事をすることになった。
飲みの勢いも相まって、本気と悪ノリが入り混じりながら開業することになったが、さあさあ屋号はどうしよう。ちょっと洒落た名前を思いついては、小っ恥ずかしさから却下する。
始まる前から立ち止まって、どうなることやら…と頭を抱えながら、愛犬の散歩に出かけていたところ”ふっ”と降りて来た。
「そうだ、金米(きんべい)がいいわ。」
金米は、私の父方の祖父の名前だ。
祖父は、父が二十歳だった夏に他界したため、私は一度も会ったことが無い。
私の中の祖父像は仏間に飾られた写真と、親戚が集まった時に聞かせてくれる思い出話で出来ていた。
そんな折、高校を卒業し東京で一人暮らしをしていた私は、里帰りした実家で一冊のアルバムに目を奪われた。
”父は海外の南の島生まれ”と幼少の頃から聞かされてはいたが、そのアルバムには南太平洋のマーシャル諸島で、現地の人々と共に生き生きと写る祖父や祖母、そして生まれて間もない父の姿があった。
写真はすっかり薄茶けているけれど、海や空の青、帆の生成り、島の女性達のワンピースの鮮やかな色まで伝わって来る。人の背丈ほどもある巨大な魚を棒から吊り下げ、何人もで神輿の様に担ぐ姿もなんだか面白い。
第一次世界大戦の後、マーシャル諸島共和国を日本が委任統治していた時代。祖父は当時は珍しくなかった7,8人兄弟の末っ子であったため、新天地を求めて海を渡ったのだろう。一隻の船から始まった貿易商が、徐々に拡大して行く様子が伺える。(結婚記念号の船で妻を迎えに行ったとの添え書きも。なんて粋!)
島に渡った当初は物がなく、栄養状態も良好とは言えず、やっと生まれたのが私の父だった。88年前の夏の日のこと。父は先日、米寿を迎えた。
そして島での事業が波に乗っていた矢先、第二次世界大戦が始まり、太平洋の島々は激戦地となった。先に家族を日本に帰していた祖父も、周りの船が次々と撃ち落とされるなか日本へと向かい、岸に上がるやいなや乗って来た船も焼け落ちたそうだ。
そんな時代を生きた若かりし祖父の姿は、自分と同じ年頃とは思えない貫禄だった。
あまりに気に入ったためアルバムを東京に持ち帰り、家に来た友人達を捕まえては見せていた。
一人、都会に暮らしていると薄れて行きそうになる、自分の中に流れるものを見つけた嬉しさもあった様に思う。
金米という名は”生涯お金とお米に困ることのない様に”と、今の感覚だとかなり直球(笑)な理由でつけられたらしいが、待っていてもそれが得られるような時代では無かったからこその、願いが込められた名だったのだろう。
金色に輝く稲穂の豊かさを思わせるその名前を、少し私に貸してね。
海や船、そして港、金米さんの人生にあった光景は、私が通っている門司港にもたくさんあるよ。
生まれ育った大分の地に戻ったのち「家族で弁当を持って出かけられる様な日々が一番の幸せだ」って、金米さんは言っていたらしい。ちょうどこの記事を書いているのはお盆の真っ只中。
じいちゃん、ほかほかのご飯お供えするからね。